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社会や生き方の根本が「改悪」される!

  ――緊迫する教育基本法「改正」と《逆世直し》の動き――

◆教育基本法は“死に体”にされ続けてきた

 教育基本法が改悪されそう! ――と叫んでも、「教育基本法って、なに?」という人が、七、八割もいるといわれるのが現実です。たしかに、地方の教育行政や学校では、法律体系のシッポのほうにある学習指導要領とか学校管理運営規則とかや、行政管理のための法律(地教行法など)とかがもっぱら大事にされ(縛られ)て、教育基本法(以下、教基法)なんて建てまえはともかく、ろくに意識もされないといわれる状態です。戦後の教育をめぐる政治や文部行政の動きも、ずぅーっと教基法を棚上げ(店ざらしに)する方向で進められてきた、と言えます。だから、知らない人が多いのも、無理はありません。
 それにもかかわらずというか、それゆえにというべきか、ある調査では教基法「改正」に「賛成」「どちらかといえば賛成」が五九%(「反対」は二三%)だったそうです。しかも、その半数以上は賛成の理由として、「現代の教育を取り巻く問題に対応できていない」を挙げているのです。とんでもない! 棚上げされ、尊重もされず生かされもせず、その理念・精神が実現されていない教基法は、「現代の教育を取り巻く問題」の原因にはなりえないのです。与党の有力者は、「教育を良くするために改正するわけじゃない」と言ったと伝えられます。ともかく、教基法に逆らう方向で教育政策が実行されてきたのですから、教基法の精神・理念が実現されるよう、教育政策を改正することこそ先決なのです。
 一九四七年に教基法が憲法に先んじて施行されて十年もしないうちから、愛国心の高揚、道徳教育の振興、「国旗・国歌」などを掲げた教基法「改正」が叫ばれ出し、60年代、80年代、そして今回と、「改正」の動きが大きくなり、それにつれて文部行政は「改正」派の要求を学習指導要領の改訂などをとおして、教育の現実の中に押し込んできました。その結果が、教基法が店ざらしにされ“死に体”と言ってもいい現状なのです。
 学習指導要領をめくれば、「与党教育基本法改正に関する協議会」の中間報告(04年6月「教育基本法に盛り込むべき項目と内容について」)で挙げられた、伝統文化の尊重も、人間の力を超えたものへの畏敬の念も、日本人としての自覚も、学校の教育活動全体を通じて行う道徳教育も、宗教的情操の涵養も、「国旗・国歌」も、そして「国を愛する心」も、既にしっかりと明記されてしまっています。この指導要領を根拠に「日の丸・君が代」も・・強制され、東京などでは教職員が懲戒処分されているのです。
 つまり、教基法があっても文部行政のやりたい放題、というのが実態。なぜ、教基法を「改正」したがるのか? と不思議なほどです。すでに地ならしが済んで、あとは目障りな条文を変えよう、もう条文「改正」をしても大丈夫、と見たのかもしれませんが、この世の中のあり方の根本をひっくり返す(それを私は、「世の中の改悪」《逆世直し》と言ってきました)ための突破口、と位置づけられているのです。たとえば憲法第24条(家族生活における個人の尊重と両性の平等)の改悪の動きが出てきていますが、教基法「改正」案では第5条(男女共学)を削除しようとしているなど、一続きの動きなのです。


 ◆05年通常国会に「改正」法案提出か!?

 自民党は「教基法改正は党のアイデンティティである」という強硬な姿勢で、05年一月からの通常国会に「改正」案を出すことを求めているといわれます。二〇〇〇年十二月の教育改革国民会議(首相の・・私的諮問機関)報告の「17の提言」のうち実現していないのは教基法「改正」の一つだけで、「改正」を求めた中央教育審議会答申(03年三月)からも二年近くになる、と主張しているのです。情勢はきわめて緊迫していると言わざるを得ません。
 これまで「改正」案が提出されなかったのは、与党間の協議がまとまらないからです。特に公明党が、自民党の「国家主義的」な傾きのある「改正」要求に、強い抵抗感を抱いているところに、その大きな理由があるものと見られます。その「改正」案の主要な点は、前文(憲法の精神に則り)の扱い、愛国心の扱い(自民党の「国を愛し」に、公明党は「国を大切にし」と提案)、第9条の宗教教育と宗教的情操の涵養の内容と扱い、第10条の教育行政の規定の扱い(特に「不当な支配に服することなく」の規定の仕方)などです。
 前述のように、愛国心などは学習指導要領に明記され、学校で教えなければならないことになっています。しかし、それが教基法に明示され、法的な根拠となることの意味と影響は、極めて大きいものです。だから「改正」案に入れるよう強く要求しているのですが、現実には実行されているわけで、「改正」の主要な目的だとは思われません。自民党の主目的は、前文と、宗教的情操(第9条)と、教育行政(第10条)の「改正」にあるだろうと思われます。
 ここでは、前文と教育行政に関して、簡単に述べることにします。


◆「個人の尊厳が日本をだめにした」という考え

 まず、教基法の前文を読んでください。
 《われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。/ われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。/ ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する》
 ここからは、新しい世の中を生み出そうとする真摯さと熱意が伝わってきます。それから半世紀余を経て、未だその「理想」は実現されていないのですから、古くなったから変えるなどということは、これを定めた先輩たちへの礼を失するのではないでしょうか。
 前文で「改正」されそうなのは、憲法とのつながりと、個人の尊厳だと思われます。憲法とのつながりは、それゆえに憲法と一体の特別な基本法と見なされてきた規定です。それを切り離すことで、他に多くある政策の根拠法としての「普通の」基本法にするのが狙いです。その上で、「教育振興基本計画」の条文を新設し、文部行政が予算つきの計画を通して、地方の教育行政を支配し、教育内容にまで介入する根拠にもしようというのです。
 前文にかかわる大きなもう一点は、「個人の尊厳」の表現が消されそうなことです。自民党は「個人の尊厳がダメなんだ」と言っているそうです。個人の尊厳は前述の憲法24条に出てくる言葉ですが、「改正」派は、“個人重視の行き過ぎ”が日本をダメにした――それは、人権・権利尊重の行き過ぎ、女性の社会進出・自立志向の行き過ぎなどの発想にもつながります――と言いたいのです。個人や権利の対抗軸として強調されるのが、国家や「公共」や「共同体」であり、義務や道徳や奉仕であり、その土台としての伝統文化です。
こうして、教育の権利の法としての教基法が教育の義務を定めた法に、国家権力を縛る法から国民に命ずる法へと一八〇度ひっくり返ります。憲法改悪も同様です。「まず個人あっての国家」を「国家あってこその個人」に変え、「権利(人権)を基盤にした社会」から「義務を果たしてこそ権利を主張しろという社会」に変える、ということです。


◆「教育は国家の国民統治の手段であり権限」という考え

 教基法第10条は、
《教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。/ 2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目的として行われなければならない》
と定めています。
 第1項は、教育の自主とか独立を定め、国家や行政の「不当な支配」を排除するもの、第2項は、教育行政は教育内容に介入しないこと(教育行政の役割と制約)を定めたもの、と理解されてきました。しかし、教員に対する職務命令と服務義務と処分で「支配」は浸透し、文部行政がつくった『心のノート』の使用が事実上強制されているのをはじめ、指導要領で何を教えるかが決められて(「国を愛する心を教えろ」というように)、10条はすでにズタズタなのです。現実は、“すでに改悪された後”のような状態です。
 この条文を「教育行政は、不当な支配に服することなく……」に変えると、与党の「中間報告」は言っています。主語を「教育」から「教育行政」に裏返すのです。公明党もさすがにこれでは拙いと考え、現行法の主旨を明確にする方針で与党協議に挑むようです。
 上意下達の支配服従関係(特別権力関係といいます)は教育関係にはふさわしくない、という考えが、10条の基礎にあります。教育する側と教育を受ける側はもちろん、教育行政と教員の関係においても重要な原則で、戦後は、特別権力関係は否定されたといわれてきました。それが「不当な支配」の規定の意味するところです。
 しかし私が知る限りでは八〇年代から文部省が再び言い始め、今では当然のように支配服従関係の教員管理が行われています。本来、学校教育法には「教諭は児童(生徒)の教育をつかさどる」と定められています。学校長も教育行政から独立した学校管理者なのですが、校長が教育委員会に呼び出されて、その課長から「国旗・国歌」の実施率が悪いなどと叱りつけられたりしているのが現実です。
 統治行為としての(統治の手段としての)教育も、戦後の教育改革の中で否定されたものです。戦前に、国家主義・軍国主義を国民に注入する道具として教育が利用され、戦争をはじめとする国策に総動員する手段としての役割を担ったことへの反省からです。第1条で教育の目的を明示的に限定した(人格の完成への支援としての教育のみ)こととともに、第10条は国家権力や行政権力が教育を統治の道具として利用することを規制したのです。その1条の「目的」に愛国心や道徳心や「公共」の精神を入れ、統治行為としての教育を許そうとすることは、権力への歯止めを取り壊すことを意味します。


◆人権・自治・平和のまちづくりの中で教育を考えよう

 このほか「改正」の動きの中では、市場的競争原理の能力主義が強化されようとしていますし、教育の目的から「平和的な国家及び社会の形成者(の育成)」も消されようとしています。教員は「全体の奉仕者」である(「国民全体に対し直接に責任を負う」教育の担い手)との規定もなくそうとしています。社会教育も、「国及び地方公共団体によって奨励されなければならない」が、「国・地方公共団体によって奨励されるもの」とされ、国・地方公共団体が「奨励の主役」になってしまいます。法の全体において、国民(主権者市民)が主体(主語)ではない条文のつくり方が目立つのも大きな特色です。
 それだけに、教育は権利であり(憲法26条・すべて国民は、教育を受ける権利を有する…学習権として理解されてきた)、26条第2項の保護者の義務は「子どもに対する」義務であって国家や社会に対する義務ではないことを、あらためて確認したいと思います。これは、憲法に次ぐ国内法としての地位を持つ国連・子どもの権利条約においても同様です。
 前にも触れたように、教基法「改正」は憲法の「改正」とともに、《逆世直し》(世の中の改悪)の一連の動きの一つです。それも、世界のネオ保守の流れ(アメリカのブッシュ大統領を支える潮流)と市場競争至上主義とにつながるものです。だから単に、教育という領域にとどまる問題ではないのです。私たちが、どのような世の中(社会)でどのような生き方をしたいのか、子どもたちにどのような社会と生き方を手渡したいのか、と問うことを突き付けられているのだと思います。「お国のために命を捧げる」ことが当然の世の中を望みますか? この地域の子たちに「命を捧げろ」と求めたいですか? というように。
 こう考えると、これは国会とか法案とかにかかわる問題であるだけでなく、地域社会づくり(まちづくり)の大きな課題でもあることに気づきます。人権と自治が息づく社会、平和を第一の価値とする社会を、さらにどう築いていくかという課題です。神奈川県も相模原市も、まちづくりの方針に掲げていることです。「一人ひとりが個人として尊重される社会を実現するために」(『県のたより』04年11月)というように。 人権は、個人の尊厳(個人の価値をたっとぶこと)が基本で、女性や子どもの権利にもちろんつながります。自治は、子どもを含めた参加・参画の市民自治や主権が機能する民主主義です。多文化の共生も人権・自治のあり方として欠かせません。こうした、まちづくりの展望の中で憲法・教基法の「改正」の動きをとらえ、《逆世直し》の流れに堤防(憲法・教基法)を破壊されないよう、なんとしても食い止めたいと強く願います。


(長谷川孝/相模原の教育を考える市民の会
/市民がつくる総合雑誌『さがみはら市民の広場 季刊アゴラ』
2005新春号に掲載)

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